●1874年のビーナス・トランシットの時、日本は…
1874年のビーナス・トランシットの時、当時の日本は明治7年でした。
前年の明治6年から、太陽暦(グレゴリオ暦)が採用されたばかり。
まだまだ江戸時代の名残をとどめていた時代です。
この時、欧米各国が世界70ヶ所以上に観測隊を派遣しました。
そして日本にはフランス隊、アメリカ隊、メキシコ隊が、このビーナス・トランシットを観測するために派遣されましたが、当時の明治新政府も、来日した観測隊の目的がよく理解できず、右往左往した様子です。
斉藤国治氏は、天文月報に「科学の黒船」という表現を使って、当時の事情を紹介しています。
3国の観測隊は、フランス隊が長崎・神戸、アメリカ隊が長崎、メキシコ隊が横浜と、当時の主要港町で観測をしました。
幕末から続く明治維新の混乱の時に、今まで接点のなかった海外と国内の技師や軍人や留学生が、力を合わせて観測したという記録が日本各地に残っています。
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当時の天文学では、地球-太陽間の距離(1天文単位)が正確にはわかっていませんでした。
エドモンド・ハレーが提唱した(1656-1742)「日面通過中の金星を精密観測することにより天文単位が確定できる」に基づき、当時の科学先進国が国威をかけ、世界各地に金星観測隊を送り出したというのが、この大観測の理由で、そして、金星観測絶好地の一つとして、日本が選ばれたのでした。
実は当時から、金星日面通過観測による天文単位計測(三角測量法)は正確性の限界が問われ、8年後の1882年のビーナス・トランシット(日本では夜のため観測できず)には、各国とも、あまり熱心な金星観測は行われなかったといいます。
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明治7年(1874)当時、日本は…
●ちょんまげと散切頭が共存する、「ラストサムライ」の時代
●鉄道開業の2年後
●人力車がかなり普及しつつあった
●電信機はあったが、電話機はない
●横浜の街にガス燈はあったが、照明はまだ行燈・堤燈の時代 |
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