*第三章*
金星と神話&宗教


 ●神話と金星
 ●
宗教と金星
 ●
神話/イシュタルの冥府下り


 金星にまつわる神話を集めてみました。


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●神話と金星

 金星の、その神秘的な明るい輝きは、古代より人々の心に強い印象を残していたようで、それぞれの民族における神話の中で、象徴的な存在の名が与えられていることが多いです。

 古代バビロニアやアッシリアでは「女神イシュタル」として、愛と戦いの女神としてあがめられました。

 中国では、金星とも太白ともいい、初めは宵ノ明星と暁ノ明星とを別々の星と考えて、長庚(ちょうこう)、啓明(けいめい)と呼びわけていました。
 唐の詩人、「李 太白」は生まれた時に、母が長庚星が懐に入ると夢みたために、こう名づけられたようです。

 バビロニア、そして古代中国でも、金星は戦いの星とされ、戦果を占う重要な星でした。それは勝利こそが、金星の輝きに象徴される美と魅力と豊饒と繁栄をもたらしたからでしょう。

 また、金星が愛と豊饒を象徴していると同時に、奔放で醜悪な面や、快楽に堕落した時の争い、愛憎そのものが戦いの原因となっていることも考えられます。

 陰陽博士として著名な「阿倍晴明」の六代目の、「阿倍泰親(あべの やすちか)」は、久寿2年(1155年)の7月に、占文を後白河天皇に奉り、「月が金星を犯すので、悪いことが起こる」と述べています。ここでは金星を凶星としていますが、これは金星を「戦いの神」とした、紀元前600年頃の古い時代の占星学の考え方です。


 ヨーロッパでは、明けの明星の何にも勝る輝きを、穏やかな美と愛の女神アフロディーテ(英語でビーナス)(ローマではウェーヌス)に例えています。

 神話では、クロノスが父ウラノスを殺害した際に、切り落としたウラヌスの身体の一部が海に落ち、その時の白い泡から生まれたという説と、ディオーネとゼウスの間に生まれた娘、アフロディーテとする説があります。

 また、ギリシャ神話の中で有名なトロイア戦争は、このアフロディーテと、ヘラ、アテナの3神の器量比べが発端となっています。


 古代メキシコのアステカ神話で金星と言えば、ケツァルコアトルです。

 他の神話では、金星は女性の象徴であることが多いのに、ケツァルコアトルは男性として扱われているのは興味深いことです。

 ケツァルコアトルは蛇の姿をして、まるで「エリマキトカゲ」のように羽毛が首の周りをぐるりと取り囲んで生えています。

 アステカ族がメキシコの地に定住する以前からトルテカ族に崇拝されていた古い神で、アステカ族からは自分たちの神々からは縁遠い、異色の神であると見なされていたようです。風と生命と豊穣を司り、太陽神、大気、天空の神だともいわれます。

 エヘカトル[大気]、ヨルクアット[響尾蛇]、トヒル[漫歩者]、フエマック[強き手]、ナニヘヘカトル[四つの風の主]、トラヴィズ・カルパン・テクトリ[曙の光の主]など多くの別名をもち、マヤではククルカン、キチェではグクマッツと呼ばれました。

 1519年、コルテス一行がメキシコに現れた時、アステカ人達は彼らをケツァルコアトルと思い込み、受け入れた結果、滅亡させられました。

 何故ケツァルコアトルが金星かというと、以下の神話があります。

 彼がアステカの神々に敗北し、ついにトルテカの国を後にしなければならなくなった時、彼は薪をうず高く積み上げ、そこで焼死自殺しようとしました。

 ケツァルコアトル達の従者達は彼をひきとめようとしましたが、彼は積みあがった薪にその身を横たえると、火をつけてしまいました。

 従者達は泣きながら彼が焼き死んでいく姿を見守っていました。すると、ケツァルコアトルは炎の中から従者達に向かって言いました。

「悲しむことはない。私の身体はこの世からは消えるが、天界に再び星となって現れ、お前たちを見守っているから」

 彼の身体はほとんど焼け落ちましたが、心臓だけは燃えずに残っていました。そして悲しむ従者たちの目の前で、その心臓が空高く舞い上がっていき、光輝く美しい星、金星となった。ということです。


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●宗教と金星

 仏教伝承では、釈迦は明けの明星が輝くのを見て、真理を見つけたといいます。

 キリスト教においては、ラテン語で「光をもたらす者」、ひいては明けの明星(金星)を意味する言葉「ルシフェル」(Lucifer)は、他を圧倒する光と気高さから、唯一神に仕える最も高位の天使、そして後に地獄の闇に堕とされる、堕天使の総帥「サタン」の別名として与えられました。

 キリスト教の伝統的解釈によれば、ルシファーは元々全天使の長であったが、神と対立し、天を追放され、神の敵対者となったといいます。

 キリスト教では、キリスト教以前の時代の古代の神々はすべて悪魔として扱われていますが、その長たるサタンが、そもそも金星を示すルシファーであるということは、大変興味深いものがあると思います。

 Lucifer の語源はラテン語で、(luc-, 光 + -fer 生む)です。
 この存在は、旧約聖書(ヘブライ語原典)にも新約聖書にも全く言及はなく、後世のキリスト教徒による創造であると言われています。

 Lucifer という言葉が、最初にキリスト教文献に登場するのは、ラテン語訳聖書の「ウルガタ」だそうです。しかし、この中でのLucifer は、単にヘブライ語の「明けの明星」を意味する言葉 Heylel Ben-Shachar(イザヤ書 14:12)の翻訳語として当てられたものです。そして前後の文脈から見て、本来バビロンの王を指すものであったと言われています。

 バビロンと言えば先程も出て来ましたが、古代バビロニアでは、金星は女神イシュタルとして、あがめられていたのです。

 キリスト教は一神教であり、他の神の祝福を受けるものを嫌います。

 聖書に登場する神を示す称号、『世界の光』、『律法を定める者』、『正義の判事』、『万軍を率いる者』など、もともとがイシュタルの祈りの文句にあったものです。

 一神教であるキリスト教の人々は、絶対なるものを認めようとするあまり、それに対抗していたイシュタルをサタンとしてその地位を落したのでしょう。



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●【神話/イシュタルの冥府下り】

 それでは、一つ神話を御紹介しましょう。

 私は、個人的には、今回のビーナス・トランシットは、このイシュタルの冥府下り、という神話が、最も象徴していると思います。

 「冥府下り」というモティーフは、様々な神話で見られる典型的なパターンです。
 日本においては「イザナギの冥府下り」、ギリシャにおいては「オルフェウスの冥府下り」と、同様の話が多いことを、皆さんもご存じだと思います。

 さて、イシュタルの場合は、諸説ありますが、最も典型的なストーリーを紹介します。

 イシュタルは、不慮の大怪我で死んでしまった恋人タンムズを求めて、単独、冥府へ向かいます。

 冥府への関門となっている、7つの門を通過するたびに、彼女は冥界の掟によって、以下のものを全て剥ぎ取られていきました。

 第一の門では頭を飾る「大王冠」
 第二の門では「耳飾り」
 第三の門では「首飾り」
 第四の門では「胸飾り」
 第五の門では「誕生石をあしらった腰帯」
 第六の門では「腕輪」と「足輪」
 第七の門では立派な「衣服」

 彼女は、全てを取られて丸裸になりながら、威厳を失うこともなく、冥府の女王アラトゥの前に堂々と立ち、恋人に会わせてくれ、と言いました。

 アラトゥは、この死の世界の最下層に降り立ち、自分の持ち物を全て失ってもなお失わない、彼女の威厳と美しさに嫉妬しました。

 そこで女王は、疫病の悪魔ナムタルに命じ、イシュタルの全身を病気の杖で打ちました。そのため、イシュタルは息も絶え絶えになり、あとは死ぬばかりとなりました。

 イシュタルは大地の生育や豊饒を象徴します。それが杖で打たれ死に向かうということは、豊饒の死をも意味するのです。

 地上の草木はしおれ、枯れはじめました。

 他の神々は驚き慌てて相談し、獅子と人間の怪物を使者として作り、7つの門を破る力を与えて、冥界のアラトゥのもとへ向かわせました。

 その化け物の威力にかなわないアラトゥは、しかたなくナムタルに命じて、タンムズを生きかえらし、イシュタルには命の水を飲ませて、もとの体に治しました。

 更にイシュタルに、7つの門を出る毎に取り上げたものを返しました。
 イシュタルは最後に出る時に、ナムタルに珠飾りを与え、タンムズの傷を癒してくれた御礼をしたと伝えられています。

 別の話では、実は、冥界の女王自身が、自分の王を失い悲しみにくれていたところに、イシュタルがやってきて嘆く彼女の姿を見たために、彼女を殺そうとした、というものもあります。

 しかし、神々が送った使者が、冥界の女王の悲しみに共感し、涙を流して話を聞いたため、女王の気持ちはおさまり、イシュタルを甦らせる、というストーリーです。


 冥界の七重の門を抜けるごとに、彼女は着ているものを一つ脱いでいきます。

 これはすなわち、彼女の地上での役割を捨てることを意味しています。
 神官としての役割、性的な力、女王としての力などを次々と失い、最後には死を宣告され、命まで失い、殺されてしまいます。

 しかし、彼女はおのれの役目を果たすことで、見事に甦ったのです。

 この話は、先のケツァルコアトルの話や、火の鳥の話を思い起こさせます。



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