●【神話/イシュタルの冥府下り】
それでは、一つ神話を御紹介しましょう。
私は、個人的には、今回のビーナス・トランシットは、このイシュタルの冥府下り、という神話が、最も象徴していると思います。
「冥府下り」というモティーフは、様々な神話で見られる典型的なパターンです。
日本においては「イザナギの冥府下り」、ギリシャにおいては「オルフェウスの冥府下り」と、同様の話が多いことを、皆さんもご存じだと思います。
さて、イシュタルの場合は、諸説ありますが、最も典型的なストーリーを紹介します。
イシュタルは、不慮の大怪我で死んでしまった恋人タンムズを求めて、単独、冥府へ向かいます。
冥府への関門となっている、7つの門を通過するたびに、彼女は冥界の掟によって、以下のものを全て剥ぎ取られていきました。
第一の門では頭を飾る「大王冠」
第二の門では「耳飾り」
第三の門では「首飾り」
第四の門では「胸飾り」
第五の門では「誕生石をあしらった腰帯」
第六の門では「腕輪」と「足輪」
第七の門では立派な「衣服」
彼女は、全てを取られて丸裸になりながら、威厳を失うこともなく、冥府の女王アラトゥの前に堂々と立ち、恋人に会わせてくれ、と言いました。
アラトゥは、この死の世界の最下層に降り立ち、自分の持ち物を全て失ってもなお失わない、彼女の威厳と美しさに嫉妬しました。
そこで女王は、疫病の悪魔ナムタルに命じ、イシュタルの全身を病気の杖で打ちました。そのため、イシュタルは息も絶え絶えになり、あとは死ぬばかりとなりました。
イシュタルは大地の生育や豊饒を象徴します。それが杖で打たれ死に向かうということは、豊饒の死をも意味するのです。
地上の草木はしおれ、枯れはじめました。
他の神々は驚き慌てて相談し、獅子と人間の怪物を使者として作り、7つの門を破る力を与えて、冥界のアラトゥのもとへ向かわせました。
その化け物の威力にかなわないアラトゥは、しかたなくナムタルに命じて、タンムズを生きかえらし、イシュタルには命の水を飲ませて、もとの体に治しました。
更にイシュタルに、7つの門を出る毎に取り上げたものを返しました。
イシュタルは最後に出る時に、ナムタルに珠飾りを与え、タンムズの傷を癒してくれた御礼をしたと伝えられています。
別の話では、実は、冥界の女王自身が、自分の王を失い悲しみにくれていたところに、イシュタルがやってきて嘆く彼女の姿を見たために、彼女を殺そうとした、というものもあります。
しかし、神々が送った使者が、冥界の女王の悲しみに共感し、涙を流して話を聞いたため、女王の気持ちはおさまり、イシュタルを甦らせる、というストーリーです。
冥界の七重の門を抜けるごとに、彼女は着ているものを一つ脱いでいきます。
これはすなわち、彼女の地上での役割を捨てることを意味しています。
神官としての役割、性的な力、女王としての力などを次々と失い、最後には死を宣告され、命まで失い、殺されてしまいます。
しかし、彼女はおのれの役目を果たすことで、見事に甦ったのです。
この話は、先のケツァルコアトルの話や、火の鳥の話を思い起こさせます。
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